現在、私は韓国の会社と直接やり取りしながら、漫画の連載をしています。
そのため、日本の漫画雑誌・アプリ等と違って編集者がついているわけではなく
セリフの校正もスケジュール管理も、すべて自分でやっています。
漫画の相談ができるとしたら、唯一、漫画家の夫くらいです。
ある意味すごく自由にやらせてもらっていますが、今連載している「DELETE」が初連載なのもあり
「担当編集者と二人三脚で作品を作る」という感覚は、いまだにあまりリアルに感じられないままです。
「漫画編集者=漫画を教えてくれる人」だと思っていた
漫画業界に入ったばかりの頃、私は「担当編集者=漫画の描き方を教えてくれる人」だと思っていました。
でも実際は、どうやら編集者というのは“先生“ではなく、一緒に作品を育てていく
“同志”や“サポーター”のような存在だったようです。そう気づくまでには、少し時間がかかりました。
他の作家さんたちが、編集者とのあいだにそんな同志のような信頼関係を築いているという話を聞くと、
羨ましいという気持ちを通り越して、どこかファンタジーのようにさえ感じてしまいます。
振り返ってみれば、過去の私は、そういった信頼関係を築くための準備が
まだできていなかったのかもしれません。
私が当時所属していたのは青年誌で、女性作家は少なく、編集者も9割方男性でした。
打ち合わせといっても、食事をしながら編集さんの世間話を聞いて終わることも多く、
漫画そのものについて、深く話し合える機会はあまりなかったように思います。
(そもそも、なんで私 青年誌に行ったの?って感じですが)
今振り返ると、あの頃の私は自分が“作家“だという意識も薄く、受け身だったなと思います。
編集者に対しても、無意識に“先生”のような期待を抱きすぎてたのかもしれません。
作家になる覚悟
最近は、ネットで誰でも自由に作品を発信できる時代になりました。
大学や専門学校でも、プロの漫画家から直接学べる環境が整ってきていて、
SNSを通じて、共感してくれる誰かや、同じ志を持つ仲間たちとつながって、
切磋琢磨しながら漫画が描けるいい時代になったなぁと感じます。
一方、私はというと――
結局、いままで日本の出版の枠組みには、うまく馴染めないままでした。
思い返してみると、漫画賞に応募していた頃は、気楽で楽しいアシスタント生活を満喫しており
その周りの雰囲気に流されるまま、漫画賞はただの腕試しとして
「漫画家になる」という覚悟を持てていなかったんだと思います。
過去に、編集者の言うままに描いた作品が最終的には佳作止まり
(賞をいただけるだけありがたい話なんですが)だったことも、
結果がどうこうというより、「決定権を他人に預けて、自分で決めなかった」ことが、
私の中では少し苦い思い出になっています。
今連載している漫画にも、そんなふうに思考停止して意思決定を他人に丸投げして、
そのまま“Delete”ボタンを押してしまったキャラクターが出てきます。
描いていて、正直ちょっと身につまされることもあります。
次の分岐点に進むために
とはいえ、今はそれなりに自分の制作スタイルや判断軸を持てるようになりました。
だからこそ、いつかもしまたどこかで信頼できる編集者と出会えることがあれば―――
なんて、そんな分岐ルートを淡く期待していたりします。
そのためにはとりあえず、私がまずそのルートイベント発生条件を満たさないとな…。
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